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ホルヘ・ルイス・ボルヘスの10冊

鯨井久志
初出:『本の雑誌』2025年8月号「作家の10冊」


 アルゼンチンが生んだ世界最高の作家の一人、ホルヘ・ルイス・ボルヘス。この博覧強記にして盲目の幻想作家のほぼ全作品が日本語で読めるという事実に感謝しながらも、今回〈作家の10冊〉としてボルヘスの邦訳作品から十冊を選ぶという過程においては、その豊かさがゆえに大いに悩まされた。ボルヘスが書く作品はおおむね三種類に分けられて、①哲学的・形而上学的なテーマを扱った幻想的なもの、②推理小説的枠組みを使ったもの、③前世紀アルゼンチンの土着的匂いの強い、ならず者(ガウチョ)を主題としたもの、がある。当然この境界線上をたゆたう作品もあるし、ボルヘス特有の問題として――特に①に該当するものとして――創作とエッセイのはざまがほぼ消失している、という事情がある。そして、今回とりわけ問題なのが、ぼくの好きなボルヘスは①に集中しているということだ。ゆえに、今回の選書は偏っていることを、まずは謝らなければならない。とはいえ、その創作のなかで囚われから逃れようとしても(たとえば「ボルヘスとわたし」を参照)、ボルヘスはボルヘスでしかいられなかったのと同様に、鯨井久志は鯨井久志であって、それ以外の何者にもなりえない。どうにもならんのである。ここはひとつ、大いなる開き直りとともに、私的ボルヘス十選を紹介していくことにしよう。

 まず何と言っても外せないのは『伝奇集』だ。捏造された百科事典に記された架空の国家が現実に侵食してくる「トレーン、ウクバール、オルビス・テルティウス」、夢見る魔術師が夢の中で息子を創造するも、おのれもまた他者が夢見る幻に過ぎないと気づく「円環の廃墟」、あらゆる文字の組み合わせが存在し、理論上これまで書かれた・そしてこれから書かれうる全ての書物を所蔵する図書館を描いた「バベルの図書館」など、オールタイムベスト級の奇想の乱れ打ちと言っても過言でない、とんでもない一冊。それにしても、直訳すれば「小説集」となるところの題を、「伝奇集」という一筋縄ではいかなさそうかつシンプルな邦題に仕立てた篠田一士氏(ボルヘスの最初期の日本での紹介に貢献、『伝奇集』も最初は篠田訳で出た)のセンスはすばらしい。

 さて、若島正氏が「読みすぎた男」(『乱視読者の新冒険』)で鋭くも喝破した通り、ボルヘス作品はほぼすべてが自己と他者とが同一に収束する世界を描いたもので、その同じテーマを短編でもエッセイでも反復している。だからこそ、ボルヘスは『伝奇集』一冊を読めば充分とさえ言えてしまう。実際、あまりにも『伝奇集』は凄すぎる。

 だが、ちょっと待ってほしい。ふたたび若島氏の評を借りることになるが、ボルヘスの凄みとは、その反復を行き着くところまで、ボルヘス自身さえ飽きてしまうくらいにまで行うことで、読者をも飽きさせてしまい、他の作品にもあったんじゃないかこれ? と思わせる領域にまで達してしまったところにある。その価値を味わうためにも、もう少し紹介を続けよう。

『砂の本』は、ボルヘスの比較的晩年に刊行された短編集で、この頃にはすでに視力を失い、もっぱら口述筆記によって作品を書いていたという。そうした背景もあってか、『伝奇集』のころに見られたバロック的な文体は影を潜め、比較的とっつきやすい作品が多く並んでいる。その中でも表題作である「砂の本」は、同じページが存在せず、開くたびに違うページが目の前に展開されるという奇怪な書物を扱った作品。ボルヘスの頻用するモチーフたる「無限」への恐怖が、簡潔かつすばらしい奇想をもって描かれた傑作だ。そしてなぜ『砂の本』を入れたかというと、岩波文庫では単独の一冊として刊行されている『汚辱の世界史』がおまけとして収録されているから。『汚辱の〜』は、ボルヘスのキャリア初期に書かれたもので、いずれも史実をもとに、ボルヘスがアレンジを加えてお話仕立てにした連作である。十九世紀イギリスの詐欺師や二〇世紀初頭のニューヨークのマフィアをテーマにしたもののなかに、日本の読者にはおなじみの吉良上野介にまつわる作品も入っているが、要するに忠臣蔵である。ボルヘスというと、いかめしい哲学的幻想小説の徒、というイメージがあるが、その本質は知的企み、もっと言うとおちょくり精神であることは、ここで強調しておきたい。ボルヘスのユーモア性については西崎憲氏や牛島信明氏も述べられているところだが、特にキャリアの初期作品が歴史のパロディ、気づく人だけが気づく改変歴史めいたものであったことは特筆すべきであろう。『伝奇集』収録の「『ドン・キホーテ』の著者、ピエール・メナール」は、二〇世紀の作家がセルバンテスになりきることで『ドン・キホーテ』と一文違わず同じ作品を書いてしまう……という短編で、もっぱらテクスト論的な問題提起として読まれてきたし、ぼく自身もそう思っていたのだが、寺尾隆吉氏の最近の論考(『ラテンアメリカ文学の出版文化史』)によると、当時のアルゼンチンには海賊版として海外文学を無断で翻訳する文化が存在し、その「剽窃」文化が影響している側面もあったのではないか、という話である。知的企みでありつつ、自分たちも手を染めていた悪事をユーモアに転換してみせる……こう考えると、作品を書き上げたあと、ビオイ=カサーレスら盟友たちとニヤニヤ笑っているボルヘスの顔が、何となく浮かんでくるではないか。

『シェイクスピアの記憶』は最晩年に書かれた作品を集めた短編集。最晩年とはいえど、ボルヘスのポエジー自体は決して衰えておらず、かねてより用いてきた分身/夢/記憶といったモチーフが、老いと死という肉体的な制約を前にして、より深まった形で濃縮されている。特に表題作では、シェイクスピアの記憶を譲り受けた主人公の歓びと苦難が描かれており、生まれてから全ての記憶を保持することのできる人物の悲劇を描いた「記憶の人、フネス」などの過去作を彷彿とさせる。読みやすさとボルヘス成分の濃厚さが両立された一冊であり、ここからボルヘスへ入るのもアリだろう。『ボルヘスとわたし』はボルヘス自身による自選傑作集、要するにベストアルバムである。ボルヘスの知的早熟がわかる「自伝風エッセー」(九歳で翻訳デビュー!?)と、各短編への「著者注釈」が併録されているのが貴重。牛島信明氏の翻訳もすばらしい。

 ボルヘスの評論・エッセイ本はいくつか出ているが、これまたベストアルバム的な日本オリジナル編集の『ボルヘス・エッセイ集』を推しておきたい。古今東西を問わないおびたただしい数の文献からの引用と、独特な逆説に満ちたボルヘスの論理は、どれを取ってもめくるめく迷宮世界を思わせるが、特にゼノンのパラドックスを枕にカフカを論じた「カフカとその先駆者たち」は必読。カフカは後世の作家たちによって消化されきってしまっているというスタンスでぼく自身はおり、その作品自体はあまり評価していないのだが、むしろカフカがいたからこそ、その先駆者たちをカフカ的に読むことができる、その先駆者を「創造」したパースペクティブを生み出したことこそが偉大なのだ、と時間の流れを逆行して論じるボルヘスの説を初めて読んだときは思わず膝を打った。

 同様の逆説的論理は、講演集『語るボルヘス』で探偵小説を論じる際にも見られる。ボルヘスは、若き盟友ビオイ=カサーレスと合作でミステリ『ドン・イシドロ・パロディの六つの難事件』を書いたり、〈第七圏〉というミステリ叢書を編んだりするほどの探偵小説愛好家でもあった。そのボルヘス曰く、探偵小説の創始者たるエドガー・アラン・ポーは、探偵小説のみならず、「探偵小説の読者」という概念を生み出したのだという。猜疑心を持ってテキストを読むという姿勢を生み出したという点でポーを称揚するボルヘスの逆説は、やはりカフカに対するそれと同様で、現在と過去という離れた、そして一定方向の順序があるはずの〈時間〉への反駁に端を発する、奇想的発想に満ちたものだ。講演集に近いものとして、最晩年のボルヘスが毎週十五分のラジオ番組に出演し話した内容を収めた『記憶の図書館』もある。縦横無尽に文学を語った大部の本だが、肉声に近い形でのボルヘスの姿がうかがえる点で興味深い。拾い読みするだけでみるみる時間が溶けていく恐るべき一冊。

 ボルヘスの文学的キャリアは、実は詩作から始まっている。その意味でも、この十冊に詩集を入れないわけにはいくまい。『ボルヘス詩集』には、各時期の代表作が収められているが、個人的に好きなのは「眠り」と題された詩である。「奇妙なことに、一錠の薬が宇宙を消し、混沌を呼ぶことができるのだ。」と結ばれるこの作品は、毎夜訪れる睡眠という一時的な死、すなわち既存の自分から離れることのできる特別な瞬間を描いたもの。「不幸なことに世界は現実であり、不幸なことにわたしはボルヘスである」と結ばれるエッセイ/評論「新時間否認論」でも主題とされた、自己の同一性から離脱したい欲求、それゆえのもうひとつの世界の希求、というボルヘスを貫く主題がはっきり見て取れる点で興味深い。

 ボルヘスはアンソロジーも多数編んでいる。いきなり芥川龍之介のマイナー短編から始まる驚きの構成の『幻想文学選集』(未訳)も凄いので、いつか日本語版を出したいという野望を抱いているのだが、それはさておき、『ボルヘス怪奇譚集』は、古今東西の書物に親しんだボルヘスにしか編めない、しかしボルヘス的な分身・夢といったテーマが通底した傑作アンソロジーだ。こっそり変名で自作とおぼしき作品を紛れ込ませているのも、おちょくり屋としてのボルヘスの顔が覗いて面白い。

 そしてアンソロジーや叢書を編むということは、そのぶん序文も書くということで、その序文を集めたのが『序文つき序文集』だ。世界文学の有名作品へのコメントを読むだけでも読みごたえは大いにあるが、ラテンアメリカの未訳作品に対するボルヘスの序文も多数収録されているのがポイント。読み進めていると、「この本は本当に実在するのだろうか?」と虚実の境目で揺さぶられるような感覚に囚われ、架空の書物の序文集たるスタニスワフ・レム『虚数』をも思わせる楽しさがあるのである。邪道な楽しみ方かもしれないが、ある意味これもボルヘス的読書体験と言えるだろう。不遜な極東の島国の読者にも、きっとにやりと微笑んでくれるはずだ。