鯨井久志
初出:『SFマガジン』2026年2月号〈架空生物〉特集
ジェフ・ライマン “Those Shadows Laugh” 紹介コラム
いちおう医者ということになっており、医学部も出てはいるのだが、かねてより人体の構造というものにまるっきり興味が持てず、ゆえに精神科医なるあまりはっきりしない職業を選んだわけなので、架空生物特集と言われてもなかなかままならぬところがある。高校時代は物理と化学を選択し、大学入学後に「分子生物学」やら「生化学」やらを一から勉強する羽目になってずいぶん苦労した有り様で、理系を名乗るのが未だに恥ずかしいほどだ。
とはいえ、生物学的なずらしだけがフィクションにおける〈架空生物もの〉の面白さとは限らない。社会的な生態にも創作者たちの想像力の膨らませる余地はあり、むしろそれこそが醍醐味と言っていいかもしれない。マクロな次元で捉えきれないわれわれ人類という集団の奇妙さ、あるいは病理を映す鏡となるのは、まさにそこなのだ。
今回紹介するのは、カナダの作家ジェフ・ライマンの中編 「あの影が笑う」"Those Shadows Laugh"(2016) だ。発表後、ジョナサン・ストラーンとガードナー・ドゾアが編者を務める二種類の年間傑作選にそれぞれ再録されており、日本語にするとおよそ三万字程度の作品である。舞台となるのは〈コリーナ・ブラーヴァ〉と呼ばれる中南米の架空の島だ。この島はディズニー社によって観光地化されているが、観光できる区域は厳密に制限されており、西洋文化とは隔絶した独自の文化・社会制度を維持している。その根幹となるのが、島の入植者にして統治者たるコリーナ人の存在である。
コリーナ人は、見た目は褐色の女性のようで、踊りを愛し、すばらしく魅力的な笑顔を持つが、ヒトとは大きな違いがある。彼女たちは単為生殖し、生涯でおよそ四回しか排卵しない。月経もなく、交尾をすることもなく、つがいになることもない。そして現地語に「彼」や「彼女」どころか、「わたし」「わたしの」という意味を指す言葉もないことから察せられるように、個人の「所有」という概念自体が存在しない文化を築いているのである。コロンブス以前に島に上陸し、その後進化上の枝分かれを辿ったと思しきコリーナ人たちは、ヒトからの搾取や衝突を回避すべく、ディズニー社の協力のもと、島を観光用の〈区域〉とそれ以外とで峻別しているという次第なのだ。
語り手である女性遺伝学者は、コリーナ人の抱える問題を解決できる専門家として、島に降り立つ。その問題とはひとえに、単為生殖がゆえに抱える遺伝子上のひずみだ。島内の孤立環境という遺伝的な多様性が確保できない状況においては、奇形の子どもたちが必然的に生まれてくる(作中では「かわいいあわれな子どもたち」と呼ばれる)。だが、決して語り手が当初予想しているような、監禁され放置されているわけではない。むしろ無邪気に、そして愛を受けながら「想像しうるかぎりのあらゆる遺伝的疾患や欠損」をそのままに暮らす子どもたちを見て、語り手は自らがもたらす遺伝学的技術において、彼らが消え去ってしまう未来を幻視し、心に痛みを覚える。
しかしコリーナ人の長老たちは冷静に、語り手に技術の伝達を求める。語り手は多くのコリーナ人が見守るなか、提供された卵子をもとに、〈コリーナ・ブラーヴァ〉初の人工授精を成功させる。観衆は歓喜に湧き、語り手は長老たちに連れられて、島中を回るキャンペーン活動に連れ出される。
そんななか、語り手は最初に出迎えてくれたコリーナ人のひとり、イーヴィと深い絆を築いていき、いつしか恋に落ちている自分に気づく。そしてふたりは境界を越え、性的な接触を持つに至るのだが、これが島の文化的規範に反するものであり、きわめて重大な過失であることを、語り手はじわじわと思い知らされる。前述した通り、コリーナ人社会には結婚や所有の概念が存在せず、したがって愛情やパートナーシップの持ち方も根本的に外界のヒトの価値観とは異なるのだ。語り手が恋愛感情や家庭の幻想を抱くにつれ、イーヴィとの関係はぎこちないものとなり、イーヴィは語り手から距離を置くようになる。
やがて語り手は島の社会から静かに、しかし確実に排除される。だが、語り手は諦めることができない。自らもコリーナ人の社会の一員として、遺伝子プールの中に入りたいと切に願う。しかしその望みは受け入れられることはなく、妥協として、彼女は〈区域〉内の観光客向けホテルで勤務することになる。観光客に向けてコリーナ人の文化を語ることはできる。だが、かつてのように島の中心部、〈区域〉以外の場所には、もう立ち入れない。かくなる状況に置かれてはじめて、語り手は、「所有」の概念から自由なこの社会において、自身が執着していた「愛」や「結婚」という価値観がいかに西洋的・父権的なものに依存していたかを悟り、無限の後悔を余儀なくされるのだ。
物語のラスト、語り手はなおも島に受け入れられることを夢見ている。夜の浜辺を歩き、コリーナ人の長老に向けて、自分が遺伝学的技術以外でも島に貢献できると手紙に書き綴る彼女の行い、それは絶望のなかにわずかな希望を見出そうとする懸命な祈りだ。だが彼女はコリーナ人にはなれない。決して。愛する人を「所有」しようとした瞬間に、彼女はその共同体から逸脱してしまったのだ。
かのごとく、切なく、しかし自らの価値観を捨てきれなかったがゆえに起こる悲劇を、コリーナ人というヒトから枝分かれした「架空生物」を軸に本作は描き出す。愛という行いそのもののエゴイズムや、異なる文化の衝突によって起こるトラブル(語り手は、自らのなかにある「外界からの征服者」的な立ち位置を自覚しながらも、それでもイーヴィを愛することをやめられない。そういった意味で、本作は「ロミオとジュリエット」に連なる悲恋の物語でもある。そしてそれら同様に、語り手は死を、あるいはより厳しい状況――コリーナ人たちをすぐそばに見ながらも、決して接触することはできない生殺しの煉獄――を与えられる)、そして翻って既存のジェンダー価値観をも問い直すのだ。
ライマンにはほかにも、男性が妊娠可能になった社会を描いた一種の復讐譚「バース・デイズ」"Birth Days"や、精神的ストレスおよび精神疾患が父系遺伝することを解き明かした科学者の視点から、家族の愛を描いた中編「わたしたちが見つけたもの」"What We Found" (二〇一二年ネビュラ賞受賞作)といった、既存の生物学の常識をずらしたところに生じる感情の機微を巧みに記した短編がある。まとまった形での紹介が望まれる。